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カルル・ブリュロフの≪ポンペイ最後の日≫とロシア美術館




ロシア美術館とカルル・ブリュロフの≪ポンペイ最後の日≫についてなど




@どこかへ行きたくなるような、いいお天気でした~☼


カルル・ブリュロフの大作≪ポンペイ最後の日≫が展示されている、
St.ペテルブルグにあるロシア美術館ですが
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血の上の救世主教会やミハイロフスキー劇場のすぐそばにありました。
門扉の双頭の鷲の下に、ドーム屋根がちょっと見えます。

門前に停まっていたミハイロフスキー劇場と書かれたベンツ。
1833年に創設されたミハイロフスキー劇場は旧レニングラード国立歌劇場のことらしいです。
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第9代ロシア皇帝パーヴェル1世が四男ミハイルのために建てたというミハイロフスキー宮殿ですが、

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イタリア人建築家カルロ・ロッシ(Carlodi Giovanni Rossi、ロシアではKarl Ivanovich Rossi:1775‐1849)による新古典主義建築(ネオクラッシック)として有名なんだそうです。
カルロ・ロッシは、ロシア貴族を父としイタリア出身のバレリーナを母として、ペテルブルグで生まれた人物であったらしい。


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ロシア美術館は、生前、美術館設立を唱えて、1894年11月に崩御した第13代ロシア皇帝アレクサンドル3世を記念して、翌年1895年4月13日、皇帝の息子ロマノフ朝最後の第14代ロシア皇帝ニコライ2世によってミハイロフスキー宮殿を改修して、ロシア最初の国立美術館として設立されたものらしい。

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中央階段にはアレキサンドル3世の胸像とプレートが見える。

「ロシア美術館 アレクサンドル3世皇帝 (Русский Музей Императора Александра Третий)
設立(Основание )1895年4月(Апрель)13日ーオープン(ОТКРыТь)3月(MAPTA)7日」?

イコンのコレクションも多い。
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ブリュロフホール(Зал Брюллова) に入りますと、まず目に飛び込んでくる大きな絵に圧倒されます!

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カルル・ブリュロフの≪ポンペイ最後の日≫の大作です
う~~ん!?
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カルル・ブリュロフ≪ポンペイ最後の日≫(1830~33年)456.5×651cm

絵を目の当たりにした印象として、約2000年前の出来事の様子には見えなかった~!
そんなに遠くない時代、もっといえば、カルルが生きていた時代の流行の新古典主義世界?


この作品は、ブリュロフがローマにて制作し1833年には完成し発表している。大変なセンセーションを巻き起こし高い評価を得て、1835年にはロシアに戻り、芸術アカデミーで教鞭もとっている。
聖イサク大聖堂の天井画≪聖母マリアの栄誉≫も描いている。

St.ペテルブルグ、最後の日に訪れた聖イサク大聖堂
豪華絢爛な建物内部。ドーム天井画は≪聖母マリアの栄誉≫
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@ブリュロフは、天井画を制作中、突然健康を悪くし医者の忠告に従って、ロシアを去りイタリア、ローマ近郊のthe village of Manzianaで最後の3年を過ごしている。


ポンペイの遺跡については
以下Wiki参照、転載

ポンペイ(Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市で、79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって一昼夜にして地中に埋もれて壊滅してしまったことで知られますが、まさにその突然に降りかかった大惨事に逃げ惑う人々を描いているのがブリュロフの≪ポンペイ最後の日≫ですが、79年8月24日の火山大噴火よりまえに、その前兆として62年2月5日に地震が起きていたそうだ。
市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。
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ポンペイは、当時ローマの帝国植民都市で港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えたらしい。町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、ワイン醸造も盛んだったようだ。”
ローマの貴族や富豪商人の別荘も建ち並ぶ保養地で生活レベルの高い古代都市だったとはよく知られたことですが、貴族のペット、イタリアン・グレイハウンドの小型犬も遺跡の中から発見されているとは、前回知りました。

19世紀ポンペイ発掘の様子
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Lello Capaldo - Ausgrabung in Pompeji
“地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕したが、その美しさの秘密は実は火砕流堆積物にあった。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収し、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった”
発掘によって蘇った古代ローマ時代そのままの都市を目の当たりにした人々の驚きはどんなんだったでしょうね!
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“ナポレオンの1812年のロシア遠征に参加した、ナポレオンの側近ジョアシャン・ミュラはナポリ王となり、ナポレオンの妹カロリーヌと結婚し、ミュラとカロリーヌ夫妻はポンペイ発掘に情熱を注いだという。
特にカロリーヌは多くの私財も投じたことから「マダム・ポンペイ」とあだ名がつくほどだった”

ひょっとしたら、ちょーどこのころに、カルル・ブリュロフは≪ポンペイ最後の日≫の構想を想い描いたのかもしれない。

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画面左上が、カルル・ブリュロフの自画像。
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Karl Pavlovich Bryullov (Russian: Карл Па́влович Брюлло́в; 12 December 1799 – 11 June 1852), 新古典主義からロマン主義への移行期のロシアの画家。
While he was working on the plafond of St Isaac's Cathedral, his health suddenly deteriorated. Following advice of his doctors, Bryullov left Russia for Madeira in 1849 and spent the last three years of his life in Italy. He died in the village of Manziana near Rome and is buried at the Cimitero del Testaccio there.


追記

@1833年、カルル・ブリュロフが≪ポンペイ最後の日≫を制作発表した後、
翌年、1834年、イギリスの作家エドワード・ブルワー=リットン(Edward Bulwer-Lytton)が同名の小説を発表している。

“西暦79年、ヴェスヴィオ火山の爆発により火山灰に埋もれて消滅したローマ帝国の町ポンペイを舞台に、正義と悪の相克、様々な立場の登場人物たちの行動を経て、最後に火山の大爆発によるカタストロフ(破局)によって幕を下ろす。”

@リットン男爵の“リットン”といえば、“リットン調査団”を思い出しましたが、
なんと、孫にあたるヴィクター(イギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン)は、
リットン調査団の団長として有名である、らしい!

Wikiより抜粋

“初代リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン(英: Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton、1803年5月25日 - 1873年1月18日)は、イギリスの小説家、劇作家、政治家。
小説『ポンペイ最後の日』(The Last Days of Pompeii )が代表作として知られ、戯曲『リシュリュー 』(Richelieu; Or the Conspiracy)に登場する文句「ペンは剣よりも強し」 (“The pen is mightier than the sword”)」は名高い。また、孫のヴィクターはリットン調査団の団長として有名である。”

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1932年、柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。

“リットン調査団(リットンちょうさだん、Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。”
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by caramel24carat | 2014-10-10 20:29 | 旅行・建築・アート
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