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Caramel 24 Carat

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東山衣装比べと円山会議




東山衣装比べと円山会議についてなど





@どんよりした冬の空から晴れ間も見えてきました~☂☼



前の記事からのつづきですが、京都、円山公園近くに、かつて重阿弥という塔頭があったそうですが、
ここは、元禄赤穂浪士の討ち入り(1702年.12月14日)を相談した“円山会議”が行われた所だという。

塔頭というのは、初めて聞く聞きなれない言葉ですが、お寺を護る僧侶やその家族が住んだ子院(住まい)のことらしいです。
その後、料亭や貸し席を営んでいたらしい。


全く記事とは関係ありません~リッパなおせちですね!お値段も~
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京都ホテルオークラ別邸 京料理「 粟田山荘」 二重おせち料理
販売価格 50,000円(税込54,000円)

画像は下記の京都ホテルのサイトからお借りしました

料亭左阿弥、重阿弥の歴史
http://www.saami.jp/history/index.html
京都ホテル こちらにも歴史が書かれています
http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no06.html

“円山会議”と呼ばれる吉良上野介を討つ作戦会議がどんな内容だったかは全く知りませんが、
そもそも、元禄赤穂事件顛末は、5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保を中心とした幕閣内の謀だったらしい。。
しかし、国内だけの事情だけでもないような気もします。

その赤穂浪士の討ち入り計画“円山会議”が行われた同じ場所“重阿弥”で、
1713年(?)、光琳のパトロン的存在だった中村内蔵助の奥方達富豪妻たちが豪華な衣装比べをしたことで有名な、“東山衣装比べ”が行われたという。

内蔵助の奥さまの衣装は、光琳のアドバイスで黒羽二重の小袖で、とてもまわりの金襴緞子の衣装の中にあって抑えたものだったという。
京都の三大祭りの一つ“時代祭り”に“中村内蔵助の妻”として行列に参加するほど有名なのですね!

@あくまで、妄想なのですが、光琳は事件の一部始終を知っていて、敢えて中村内蔵助の奥方には喪服のような黒い衣装を薦めたのではないでしょうか。。赤穂四十七士の霊を弔うためにも。本人は知らずとも光琳のせめてもの計らいだったのかも知れない。。

@綱吉の生類憐みの令は、ワンコの〇〇*〇から火薬の原料の硝石をつくることが目的だったとも。
硝石(しょうせき)は、「nitre」はニトロ、あのダイナマイトのニトロなんですね

@長崎出島のオランダ商館長カピタンは、毎年、江戸城参府を義務づけられていたらしい。
なんと、驚くことに、江戸時代の間167回、総勢150名が参勤交代よろしく、長崎から陸路→瀬戸内海→大坂→京都→東海道→江戸、
と1200kmの旅を毎年行っていたとは!

エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』には、徳川綱吉と謁見したことをスケッチと共に描かれている。

◆カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、オランダ東インド会社が日本に置いた商館の 最高責任者「商館長」のことをいう

◆重阿弥について  料亭左阿彌より転載

円山に安養寺の塔頭の、多蔵庵春阿弥、延寿庵連阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、長寿院左阿弥、勝興庵正阿弥、があり「円山の六坊」と呼ばれていました。塔頭は後に遊覧酒宴の宿となり、僧坊は貸し席、料亭に変わっていきました。重阿弥では、赤穂浪士により、吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれています。左段上から3つ目の写真、世阿弥は、連阿弥、重阿弥を合併し、京都で始めてのホテル、也阿弥ホテルになりました。春阿弥は、1877年に温泉場となり、1906年に焼失しました。左阿彌も明治維新以降の御前会議(明治期から太平洋戦争終結時まで国家の緊急な重大事件に際し,天皇の出席のもとに行われた元老,主要閣僚,軍部首脳の合同会議をいい、重要な国策を決めた会議)に使われました。
六阿彌のうち左阿彌のみが今に至るまで料亭として残りました。 

          
by caramel24carat | 2014-12-11 17:00 | 歴史・人物 | Comments(0)
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