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Caramel 24 Carat

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U55に乗ってブランデンブルグ門へ


今、平和で暮らせているのは
先人の苦しみと忍耐と努力の
おかげだと改めて感謝します




以下長々とした旅の記録

ベルリンも日本と同様に連合軍に徹底的に破壊された街
そのベルリンの象徴的なブランデンブルグ門へ
見学に行って来ました
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ポツダムから戻ってベルリン中央駅から
駅前のワシントン広場を渡って
地下鉄を目指す

@中央駅前広場がワシントン広場だと知りましたが
なぜなんでしょうか?

立っていた標識 「U55→100m」 を見間違えたらしく
進むとそこは衝撃の草むら!?
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標識まで戻って → をよく確認し
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気を取り直して、U55の地下鉄入口を発見
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地下道は人もまばら~(ダイジョウブかしら?)

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とまっていた電車にのる
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確か3つ目の駅 Brandenburger Tor で降りる

(U55線のことよく知らないで乗ったのですが
今思えば、終点の駅でした~笑点だわ)
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U55というU-bahn=地下鉄は、全長1.8kmの驚くほど短い線らしい
2009年8月8日完成で計画よりずいぶん遅れ
トンネル工事の難攻箇所であったことや財政的なもめ事もあったらしい

首相(Kanzler)官邸前も通るらしい 

Berlin Hauptbahnhof(ベルリン中央駅)⇔Bundestag(連邦議会)⇔Brandenburger Tor(ブランデンブルグ門)

@U55の閑散とした理由は
3つの駅しかないミニミニ線だからなんですね

階段を上り、地上に出ると、そこは
ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden=菩提樹)大通り
そして、その先にはブランデンブルグ門が真正面に見えた

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ああ、あれがブランデンブルグ門!

その感動は
バッハの≪ブランデンブルグ協奏曲≫とともに

#美しいこの動画お借りしました

この楽曲はブランデンブルク=シュヴェート辺境伯に献呈されたらしい
このころから、ブランデンブルグ辺境伯は強かったのでしょうか

“1721年3月24日に
ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒ(英語版)に献呈された”



WWⅡでは、やっぱり、ブランデンブルグ門も破壊されたんですね
階段横には、70年前、1945年の廃墟同然の門の
写真の載った立て看板があった

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両側にはアメリカ大使館
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フランス大使館が並んでいた
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門へと歩む
この門前の広場は、パリ広場だそうです
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@ちょっと、ブランデンブルグ門の歴史をみてみますと

かつて、ベルリンは星型城壁で囲まれていた城塞都市であった
1734年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は
軍事的役目としての要塞を廃止し
先代からの脆弱な赤字財政を立て直すため
代わりに市街地全体を大きく取り囲むように
ベルリン税関壁を設け
各地方へ通じる街道には、最終的に18の税関門がもうけられた

(ライン河の古城群も諸侯が船から税を徴収していた税関だった)

1735年~1764年ごろのブランデンブルグ門 Wikiより
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時代は流れ
1868年にプロイセン王ヴィルヘルム1世の命によって
税関壁が取り壊された

なんと、ヴィルヘルム1世の母親は
ロシア皇帝パーヴェル1世の孫娘になる

税関壁が壊されるに伴い、次第に門の多くが姿を消していく
そんな中、ブランデンブルク門は残された

なぜ≪ブランデンブルグ門≫が残ったのでしょうか?

通り抜けた裏側からみたブランデンブルグ門
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ブランデンブルグ辺境伯を出した
ホーエンツォレルン家(ベルリン大聖堂が墓所)は
プロイセン王そしてドイツ皇帝も出した名家で
統一ドイツ帝国を築いた王家であった

日本でいうなら徳川将軍家みたいなもんでしょうか

その王家の首都ブランデンブルグからベルリンへと通ずる
王さまも通る重要な街道の門が
≪ブランデンブルグ門≫だった
ということらしい。。

プロイセン王から、ドイツ帝国の皇帝にもなったことで
ベルリンへ遷都する

なんと驚くことに、ドイツ皇帝の戴冠式は、普仏戦争の相手国
占領地フランスのヴェルサイユ宮殿で行われたんですね!

あこがれのヴェルサイユ宮殿だったのでしょうか!?


“1871年1月28日に首都パリを占領された。
パリ陥落の10日前にプロイセン王ヴィルヘルム1世は
征服したフランスのヴェルサイユ宮殿で
盛大な戴冠式を行い、ドイツ皇帝に即位した”

しかし、時は経ち、やったらやり返えされる
倍返しは連合軍によって
第二次世界大戦で、ミゴト徹底的にやられたんですね!

門のそばでミタ、ガリバーさん!
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こんな時代に生きざるを得なかった
巻き添えをくった人々はホントに悲惨です

しかし、この後もベルリンの壁が築かれ東西に分断されるんですね

舗道に埋め込まれたベルリンの壁跡のプレート
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“ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により
建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって、古代ギリシャ風で設計され
1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している”

“門の上には、彫刻家ゴットフリート・シャードウが制作した
四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像を乗せた”

この≪勝利の女神ヴィクトリア≫については
プロイセンとフランスのナポレオンの間で
争奪戦があったようです

門の完成直後には、戦争に勝利した
ナポレオンが≪勝利の女神ヴィクトリア≫を持ち去ったという

しかし、今度はプロシア軍がパリに攻め込み
ナポレオン戦争でナポレオン軍を打ち破り
≪勝利の女神ヴィクトリア≫を奪還し門の上に戻した

冷戦時代の1953年6月17日には、東ドイツで起こった市民運動を
ソ連軍が武力制止したことによってたくさんの犠牲者がでたことがあった

その悲しみの日が広場の名まえ「6月17日広場」として残っている
広場から続く通りは「6月17日通り」という

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壁跡の位置からみたドイツ連邦議会議事堂
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ほんらいの≪平和の門≫は
いつしか≪戦勝と凱旋のシンボル≫になった歴史があったんですね
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もとの平和の門のままであって欲しいです
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by caramel24carat | 2015-08-06 17:00 | 旅行・建築・アート
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