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Caramel 24 Carat

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雷雨ふる 奏でる三重奏 ワーグナーか



雷雨ふる 奏でる三重奏 ワーグナーか


          きゃらめるキャラット


先日の9月17日は、雷が鳴り雨もかなり激しく
水が溢れ流れる音もした
遠くに救急車がサイレンを鳴らしながら走りさった

ああ、ちょっとコッポラのワルキューレみたい

ワルキューレって、士気高揚にはピッタリなBGMじゃない
テンション高くなるわ~

まあ、ワーグナーといっても
“結婚式”と“黙示録”くらいでしか知らないですけれど

ドレスデンの≪君主の行列≫近くの
雷雨ふる 奏でる三重奏 ワーグナーか_b0209886_8531256.jpg

建物の壁で見かけた[ワーグナーのプレート]
雷雨ふる 奏でる三重奏 ワーグナーか_b0209886_8445389.jpg

このプレートは“ライオンズクラブ”の名が刻まれていますが
ドレスデンにも、ライオンズクラブってあるんですね
高知の四万十の“坂本龍馬”像もライオンズクラブの寄付だったわ


ワーグナーは、1843年、ドレスデンにあるオペラハウス
ゼンパー・オーパー(Semper Oper)の指揮者に就任し
1845年10月、『タンホイザー』を初演した

ドレスデン、ゼンパー・オーパー  2015.7
雷雨ふる 奏でる三重奏 ワーグナーか_b0209886_9575163.jpg

どうも、イマイチ好きではないわ
ワーグナーの男性的で重い音楽はやっぱりドイツ人だわ

少しワーグナーについて調べてみた

以下Wagner のWiki引用

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner )
(1813年5月22日 ライプツィヒ - 1883年2月13日 ヴェネツィア)

ワーグナーのお父さんは、ナポレオン軍の
フランス語の通訳もしていたなんて面白い

“1813年、ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父カール・ワーグナーは警察で書記を務める下級官吏であったが、フランス語に堪能であったため、当時ザクセンに駐屯していたナポレオン率いるフランス軍との通訳としてたびたび駆り出された。”

ワーグナーは、パリやロシアのリガへも行ってるが認められず
ドレスデンに行く
ロシアもパリも受け入れなかったというのは
なんとなくわかる 華麗さが全くないもの

“ドレスデンでの1842年10月20日の「リエンツィ」初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目されることとなった。この成功によってザクセン王国の宮廷楽団であったドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命された。”

なんと、ワーグナーによって『第九』が広く評価された

“1845年には『タンホイザー』を作曲し上演したが、当初は不評であった。しかし上演され続けるうちに次第に評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになっていった。1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーベンの『第九』の演奏を計画。当時『第九』は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備のかいあってこの演奏は大成功に終わった。以後、『第九』は名曲としての評価を確立する。1848年には『ローエングリン』を作曲したが、上演はこの時はなされなかった。
1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかる”

このあと、あのバイエルン王のルートヴィッヒ2世がワーグナーを招聘、援助する

“1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。しかしそれを非難した宮廷勢力や、すでに噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマ(Cosima, 1837年 - 1930年)との仲を王も快く思わなかったことから、翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ

コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産む(2人とも離婚していない)。ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した(1870年)。そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー一派と敵対していたブラームス派に加わる。

1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し、1868年6月21日にはビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。

ミュンヘン、レジデンツ前にて バイエルン国立歌劇場 2015.7
雷雨ふる 奏でる三重奏 ワーグナーか_b0209886_13162198.jpg

ミュンヘン宮廷歌劇場では
1865年 ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」初演
1868年 ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」初演


1872年、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。1874年に『ニーベルングの指環』を完成。劇場は1876年に完成し、『指環』が華々しく上演された。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望して、再度の上演を強く望んだが、おもに多額の負債のため、生前には果しえなかった。’

なんと、ワーグナーの奥さんコジマとヒトラーが会っていて
1930年、コジマと息子ジークフリートが亡くなると
ジークフリート夫人のヴィニフレートはヒトラーと個人的に親しく
一時は結婚の噂もあったという


ワーグナーの反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる

”ドイツ音楽雑誌の新音楽時報に匿名で『音楽におけるユダヤ性』と題した反ユダヤ主義の論文を発表。音楽に対するユダヤ人とユダヤ文化の影響力を激しく弾劾した。後にこれはナチスに利用されることともなった。現在でもイスラエルではワーグナーの作品を演奏することはタブーに近い。欧米でもワーグナーの「音楽」を賞賛することは許され(第二次大戦中でもアメリカなどで普通に演奏されていた)てもワーグナーの「人物」を賞賛することはユダヤ人差別として非難の対象となる”


“ワーグナーの死後、祝祭劇場はコジマが運営し、1907年からコジマは引退して息子のジークフリート(Siegfried, 1869年 - 1930年)が中心となって運営した。ジークフリートは作曲家としても活動している。ワーグナーを好んだヒトラーは晩年のコジマに面会している。1930年にコジマとジークフリートが相次いで死去すると、ジークフリート夫人のヴィニフレート(イギリス出身、1897年 - 1980年)があとを継いだが、彼女はヒトラーと個人的にも親しくし(一時は結婚の噂もあったほどである)、ついに祝祭劇場はナチス政権の国家的庇護を受けることになった。なお長女フリーデリント(Friedelind, 1918年 - 1991年)は母のナチスへの協力を嫌って出奔し、アメリカへ亡命した。

第二次世界大戦の敗戦後、ヴィニフレートはナチスとの協力の責任を問われて祝祭劇場への関与を禁止された。劇場は一時アメリカ軍に接収されたが、長男ヴィーラント(1917年 - 1966年)に返還。1951年、フルトヴェングラー指揮の第九でバイロイト音楽祭も再開された。ヴィーラントは戦後のバイロイトでの上演の多くを演出し、舞台装置を極端に簡略化し、照明の活用と、わずかな動きに密度の濃い意味を持たせるその演出技法は、巨匠カール・ベームの新即物主義的な演奏とともに「新バイロイト様式」として高い評価を受けるとともに、ナチス時代との訣別を明確にした。”
by caramel24carat | 2015-09-19 10:01 | 暮らし・ハイ句 | Comments(0)
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