昨日は終日お天気で暖かい日でした
出かけた設楽原では可愛い桃が咲いてました
ほんと春の足音が聞えるようで癒されるわ~
濃いピンクのお花なので桃と思ったのですが?
(花びらがとんがっているのが桃で
丸いのが梅と見分けるらしいのですが)
ところで、“桃と銃”なんてブッソウなタイトルですが
銃をいっぱい見てきました
銃といっても火縄銃です
しかし火縄という泥臭いイメージとは程遠く
洗練された銀や銅象眼の美しい火縄銃もありました
家紋と朝顔が象嵌されたステキな銃
前回、鉄砲の産地であった滋賀県の長浜が
天下人御用達だったらしく
信長の「長」をとって今浜から変えられたと知りましたが
今回訪れた信長軍の鉄砲隊が活躍した
長篠の合戦の跡地に建っている新城市設楽原歴史資料館には
たくさんの火縄銃が展示されていました
三段撃ちを連想する?3段構えの新城市設楽原歴史資料館の建物
天正3年5月21日(1575年6月29日)におきた長篠の合戦は
織田信長+徳川家康の連合軍38,000人と
武田勝頼軍15,000人の決戦で
武田の騎馬隊が馬防柵に遮られ無念の完敗をした
その馬防柵が駐車場に復元されていた
なんといっても織田・徳川の連合軍38,000の大軍と
馬防柵に守れながらの新兵器を使った鉄砲隊の前では
当時最強といわrた騎馬隊の武田軍も(鉄砲vs騎馬)
3,000丁の3段撃ち攻撃ではなすすべがなかったらしい
織田信長は丸腰の鉄砲隊を守るため
(火縄銃はちょっと発砲するまでに時間がかかった)
柵を建て、3段階に分けて3段撃ち作戦採用
この作戦が勝利をもたらした、らしい
武田の馬を立ち往生させる高い馬防柵を作るため
岐阜から丸太を運んだというから驚き!
まあそれにしても戦国時代とはオソロシイ時代だったのですね
長篠合戦図屏風
徳川美術館蔵
総勢5万の軍隊が入り乱れ撃ちつ討たれる壮絶な戦いが
繰り広げられたという阿鼻叫喚の地獄絵巻があったとは!
黒沢明の『影武者』の映画のシーンのパネルが並んでいた
フランシス・フォード・コッポラやジョージ・ルーカスの助力があったらしい
そんなわけで、このあと、最新兵器3,000丁もの鉄砲隊を編成して
勝利した織田信長の時代がやってきた、というわけですが
展示物を読みますと、種子島に伝来した2丁の鉄砲から
すばやく鉄砲産業を興していく日本人は素晴らしい
素晴らしいというのは不適切ですが
銃そのものは武器ですからホメタものではないけれど
新しい銃(モノ)をすぐ解体し日夜研鑚し自分らのものとして
新たに改良しさらなる優れたものを造りだしてしまう技術を習得してしまう
その辺のモノ造り魂がいきいきと息づいていたのが
感じられて、大変おもしろかったです
円弧を描いた屋上からの眺めが素晴らしい
茶臼山の織田軍陣地、手前の徳川軍陣地が一望できました
資料館の見学を終えて坂を下って来たところを
左折しようとすると、意外な文字が目に飛び込んできた
つい最近、辞職された某大臣の名前を発見!
≪甘利郷左衛門信康の碑≫とは?
“甘利信康は、信玄を若い頃から支えた老臣・甘利虎泰の子である。長篠・設楽原合戦時には父・兄は既に亡くなっており、弟の甘利信康が百騎の侍大将として小荷駄奉行を勤めた。
いろはかるたには、「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」と書かれている”
@なんと、いろはかるたにも登場しているんですね!
記念に、車を降りて一枚撮りましたが
ググって見ると、まさにご先祖は武田の家臣甘利氏だったそうでビックリ!
遠くに見える白い線は新東名
@来る2月13日に新東名の豊田東⇔浜松いなさが開通するらしい
その間にある新城ICからは降りてすぐ