急に寒くなりました~
室温16℃
欅の木といえば大木ですが
これはケヤキの盆栽
ちょっとかわいそうな気がしました
秋の夜長はドラマが楽しみ
とはいっても生TVで見るのは
「石川五右衛門」と「ドクターX」
外科医のドラマらしく
「ドクターX」のある部屋の壁には
レンブラントのお馴染みの作品
≪テュルプ博士の解剖学講義≫飾られていたわ
レンブラント1632年≪テュルプ博士の解剖学講義≫
この作品はオランダのデン・ハーグの
マウリッツハウス(マウリッツハイス)美術館の所蔵
マウリッツという名前の由来は
ここに住んだナッサウ=ジーゲン侯ヨハン・マウリッツ
(1604年 - 1679年)にちなむ、とのこと
ヨハン・マウリッツは
代々オランダ総督を務めてのちに王家となったオラニエ=ナッサウ家の傍系で
当時植民地であったオランダ領ブラジルの総督を務めた人物である
築地に聖路加病院がありますが
聖ルカは医者や画家の守護聖人とされる
♡
忠臣蔵の赤穂藩の江戸上屋敷の
あった場所らしいです
というのは
以前にもブログで書いたけれど
どうも赤穂藩取り潰しで
上屋敷を取り上げたのは
ちょうど
カピタンが江戸城に参府する際
いろいろと便利な場所だったからと
ひそかに思っているのですが
♡
描かれているのは
ニコラス・テュルプ博士が腕の筋肉組織を
医学の専門家に説明している場面である
死体は
矢作り職人アーリス・キント(Aris Kindt)のもので
その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった
見学者の一部は
絵に描いてもらう代金を支払った医者たちである
♥
当時17世紀では解剖講義は社交イベントであり
解剖劇場だったというから驚き
その頃より150年ほど前の
天才レオナルド・ダ・ヴィンチは
ひそかに解剖してデッサンしていたらしいが
劇場型のオープンなイベントとして
解剖学が認知されていったというのは
興味深いわ
♡
ところで
先日東京では江戸東京博物館で開催中の
≪シーボルト展≫をのぞいてきました
総武線で両国駅に降りたのは初めて
お相撲の国技館の隣でした
ちょっとそれますが
お相撲で思い出しました
昔の大鵬さんの銅像が
ウクライナのオデッサに
建っているらしい
大鵬のお父さんが
マルキャン・ボリシコといって
ウクライナ人のコサック騎兵隊将校だったらしい
オデッサというのは黒海に面した街で
≪戦艦ポチョムキン≫の映画で有名なところでした
(実はお相撲のはっけよいはキライなんですけどね)
♡
江戸東京博物館では
特別展のシーボルトだけ見ました
まあ、日本の美術館は
写真撮影禁止のところが多いですが
この時もそうでした
ほんとせこいというかつまんないです
♥
シーボルトさんは
1866年、ミュンヘンで亡くなったのですね
つい先日の
ネットニュースでは
シーボルトの死因は
当時の手術した際の衛生環境が悪く
感染死だったらしい
バイエルンの名門貴族の医師の家に生まれる
シーボルト肖像画(川原慶賀筆)
♥
シーボルトさんはあの有名な
長崎の鳴滝塾の外科医ですが
(といってもよく知りませんが)
鳴滝塾では≪テュルプ博士の解剖学講義≫のように
解剖講義をしたのでしょうか?
どうも
超人的なシーボルトさんですが
日本への来日目的は
偵察&徹底調査!?
そして
その調査報告とそれらに関した膨大なコレクションを
持ち帰ること
そんなミッションがあったらしい説もあり
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以下wiki参照しながらメモ
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」だが、日本では「シーボルト」で知られている。出島の三学者の一人。
バイエルンの名門貴族の医師の家に生まれた
シーボルトは医師として終わることを望ます
東洋医学を志して
1822年オランダのハーグへ行き
オランダ国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け
7月にオランダ領東インド会社の陸軍病院の外科少佐となる
その後、1823年3月、バタヴィア(ジャカルタ)を経て
8月、長崎の出島のオランダ商館医になる
近年の調査により、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があることや、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器・武具解説図など軍事的政治的資料も見つかっていることから、単なる医師・学術研究者ではなかったと見られている[5]。日本へ[編集]
シーボルトとエンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの3人を
「出島三学者」などと呼ばれる
ケンペルさんは
将軍綱吉の時
江戸城に参府し謁見している
♦
シーボルトが来日した1823年年の秋には
『日本博物誌』をはや脱稿
出島内において開業の後
1824年には出島外に鳴滝塾を開設し
西洋医学(蘭学)教育を行った
♥
展示会場ですが
非常にたくさんの資料や
おどろきのコレクションの数々が展示されていて
会場内では
ちいさな驚きの声とかずかなうめき声とが
チラホラ聞かれました
とうのはチョッとオーバーかな
それにしても
オソルべしドイツ人シーボルト!
シーボルトの実に几帳面で勤勉で緻密で
整然と作成された膨大なコレクションのリスト等は
生コンピューターのようでしたわ
♥
シーボルトさんは
当時のプロシア政府から派遣された
日本の内情探索を命じられた”上級のスパイ”のようだったのかしらね
日本の植物に関しても
徹底していて
1825年には出島に植物園を作り
日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した
なんと、1400種とは!
彩色されたアジサイなどの植物画もありました
以下Wiki引用転載
”1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る[2]。徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。”
シーボルト事件
♦
”1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。”
帰国
♦
”1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか,哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る[2]。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世 (オランダ王)からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる[2]。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設[2]。ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る[2]。 オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。”
”日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。”
再来日とその後
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1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロシア遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロシア国使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する[8]。平行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す[8]。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される[8]。また、イギリス公使オールコックを通じて息子のアレキサンダーをイギリス公使館の職員に就任させる[8]。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。1863年にはオランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される[9]。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高価を理由に拒否される[9]。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される[9]。1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月にパリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められるも三宅の手元には3箱しか送られてこなかった[9]。バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず[9]。ヴュルツブルグの高校でコレクション展示し「日本博物館」を開催し、1866年にはミュンヘンでも開く[9]。再度日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した[9]。70歳没。彼の墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地(Alter Münchner Südfriedhof)にある。
以上wiki引用転載
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