今日は小ぬか雨のような霧のような雨が降ってました
先日、人形町を訪れた時、ホテルへ向かう途中
立派な石造りの門構えの幼稚園があり
見上げますと日本橋幼稚園でした
素晴らしい!
さすがお江戸ど真ん中の日本橋の幼稚園は格が違う!
と感心しながら前を通り過ぎました
とても立派な石造りの建物なので 見上げたまま歩いてますと
幼稚園の隣の中央口の校門には日本橋小学校と
書かれていました
さらには、中央区立の図書館もビルの上層階に
併設されているようでした
日本橋幼稚園・小学校の立派な石造りの建物は日本橋室町にある三井記念美術館の重厚な建物からの連想で明治期のものかしらと思ったのですが
そうではなく
建物は1994年3月竣工の意外や新しいものでした
明治10年創立の中央区立十思小学校(小伝馬町5-1)と
明治34年創立の東華小学校(人形町1-1-17)が
統合し、東華小学校校舎に
新しく日本橋小学校として
1990年4月1日創立されたものでした
東華小学校の建物は1990年8月23日には取り壊しが始まり
新校舎建設中のため十思小学校へ仮移転し、
1994年3月には完成し
新校舎日本橋小学校に移転が完了したようです
地上9階建て地下2階
でね、その日本橋小学校の場所は
明治頃には何があったのかしら?
と調べてみますと、
元々姫路藩酒井氏の藩邸があったところで、
明治初めには、
あの西郷隆盛が住んでいた約2600坪の屋敷があったという
ほんと驚きました。
そう言えば、ホテル周辺のグーグルマップを眺めていた時に
ちらっと西郷隆盛居住跡とい文字を見ましたが、
後で行ってみようなんて思っていたのに
すっかり忘れてました。
しかし、今、よくよく見れば、
上の日本橋幼稚園の向かって左に西郷隆盛住居跡の銘板が
立っていたのですね。
石造りの高い建物ばかりに目が行って、
足元の銘板は見過ごしてしまっていたわ
元々、江戸期は姫路藩酒井氏の下屋敷があったそうで
明治になって、明治維新の三大英傑の一人
西郷隆盛(1827~1877)が
明治4年から6年の2年間ほど住んでいたようです
2600坪の広大な屋敷のある敷地内の長屋には
書生が15人ほど住んでおり、下男も7人雇っていたという
また、上野の銅像では犬を連れていますが
敷地内で猟犬を数頭飼っていたそうです
看板の詳細
明治6年(1873年)
第一大区沽券(こけん)図
蛎殻町一丁目一番
二千六百三十三坪 / 金千五百八十六円 / 西郷隆盛
維新後鹿児島にいた西郷隆盛は、明治4年新政府からの要請で
上京し、参議に就任。同明治四年十月、岩倉具視を特命全権大使として、大久保利通、木戸孝允を副使とする使節団が米欧へ派遣されたあとには、筆頭参議として留守政府首班となり、学制、徴兵制度、地租改正などの重要政策を実現した。
明治6年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより問題の解決にあたろうとしました。
閣議でも、いったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、
海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止になります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました ≪明治6年の政変≫
下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。
鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治十年に西南戦争を起こし自害しました。
平成19年3月
中央区教育委員会