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Caramel 24 Carat

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フェリペ2世と4人の妃とドン・カルロス






フェリペ2世の4人の妃とヴェルディのオペラにもなったスペインの王太子ドン・カルロスについて



@昨夜は久しぶりに雨が降り、本日はドンよりしたお天気でしたが、いいお天気になってきました~☁~☼

ウィーン美術史美術館のスペインの部屋に展示されていた肖像画を改めて眺めているのですが、
知らないことが多すぎて、調べていくとキリがないのですが、なかなか面白く、すこしモヤモヤが晴れていく~


前出の、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が子どものころ過ごしたスペイン・ハプスブルク家のスペイン黄金の時代の王様フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)ですが、いろんな事情があって、なんと4回結婚している。因みに、当時の植民地であった現在のフィリピン共和国、フィリピン諸島などの「フィリピン」は、この王様フェリペ2世の名に由来するらしい。

闘志満々の表情のフェリペ2世  それにしても素敵なファッション!
1584年、日本から来た"天正遣欧少年使節”を歓待した王さまとのこと。
画像はwikiより
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フェリペ2世の最初の結婚相手は、王太子時代の1543年、16歳?で、ポルトガル王国のお姫さまマリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル(Maria Manuela de Portugal, 1527年10月15日 - 1545年8月12日)でした。若い2人は同い年でしたが、王家独特の近親結婚でした。1545年8月に長男ドン・カルロスを出産後、わずか数日後に、可哀そうに18歳で亡くなってしまう。
ほんと登場する肖像画はどれも素晴らしいファッション!
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@ポルトガルからお嫁入り先のスペインで若くして亡くなったマリア・マヌエラですが、その父親ポルトガル王ジョアン3世は、遠く離れた日本のその後の歴史に影響大な人物だったのかも知れない。厳格なカトリックの王様は、その頃、イグナチオ・デ・ロヨラが”イエズス会”という新修道会を創設したこと知り、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣してほしいとロヨラに依頼したそうだ。ロヨラが推薦したのが、なんと、日本に布教活動にやってきたあの1549(イゴヨロシク)のフランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲスであったそうだ。



フェリペ2世と最初の妃の王子カルロスこそ、シラーの戯曲にヴェルディが作曲したオペラ<ドン・カルロス>の主人公だそうだ。ドンというのは、スペインイタリアでは男性の敬称に使うらしい。
因みに、ヴェルディ作曲のオペラ<ドン・カルロス>は、1867年3月11日、フランス皇帝ナポレオン3世夫妻を迎え、オペラ座にて初演を迎えたのだったが、ウジェニー皇后(スペイン出身、熱心なカトリック信者と伝えられる)が内容に不快感を示して途中で席を立ってしまうというハプニングもあったそうだ。

ドン・カルロス・デ・アウストリア(Don Carlos de Austria, 1545年7月8日 - 1568年7月24日)
それにしても、どう!この色彩感覚とファッションが素晴らしいし、肖像画がきちんと残っているところがスゴイ。
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悲劇の王子ですが、父に反逆?してネーデルランドに行こうとして逮捕監禁され、24歳で牢死しました。


ドン・カルロスの母であり一番目の妃を亡くしたフェリペ2世は、1554年7月、2度目の結婚をする。
2番目の妃は、あのイングランド王ヘンリー8世とスペインから嫁いだキャサリン・オブ・アラゴンの一人娘メアリー1世(Mary I, Mary Tudor, 1516年2月18日 - 1558年11月17日)でした。

偉大な父上神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V., 1500年- 1558年)の退位により、王太子であった彼は、1556年1月16日、28歳で、オーストリアを除く広大な領土を受け継ぎ、スペイン王フェリペ2世として即位する。ですが、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3ヶ月後には再びスペインに帰国する。

2番目の王妃であるイングランド女王メアリー1世 1554年 (在位1553年7月19日 - 1558年11月17日)
テューダー家の紋章の赤薔薇を手に持つメアリーですが、フェリペ2世よりずいぶん年上ですね
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ヘンリー8世と言えば、アン・ブーリン(エリザベス女王の母)と結婚するため離婚の許されないカソリックを捨て、イギリス国教会を作っちゃった人物ですから、メアリー1世にしてみれば、母を捨てた憎き父親です。そのプロテスタントには当然反対で、スペイン王家の伝統を守り敬虔なカトリック信者でした。イングランド王在位中には、母親の仇とばかりに、徹底的にプロテスタントを迫害し”ブラッディ・マリー”と呼ばれている。宗教の違いとはお恐ろしい。

フェリペ2世がスペインの王で奥さまがイングランド王として共同統治者だったのもつかの間、両国を行ったり来たりして多忙なうちに、メアリー1世は病気で亡くなってしまう。この時1558年、異母妹のエリザベス1世(在位1558年11月17日 - 1603年3月24日) が王位を継承することになる。のちの1588年、アマルダの海戦で、エリザベスはスペイン無敵艦隊を破り勝利する。イングランドと闘った経緯は、宗教問題のこじれや、ネーデルランドへの介入、はたまた海賊行為など問題を多く抱えていた。

彼が即位と同時に引き継いだものには、“バンカロータ”といって膨大な借金も受け継ぐことになる。翌、1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった。在位中にこれを含め、4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺える。「陽の沈まぬ国」とは言え、やはり、そろそろ沈む時がくるのですね。。


そして、フェリペ2世の3番目の結婚相手は、今度は、フランス王アンリ2世の娘エリザベート・ド・ヴァロワ(Élisabeth de Valois、1545年4月2日 - 1568年10月3日)でした。
エリザベートは、スペインではイザベラ、エリザベッタはイタリア語とか。

王妃イサベル1606年。プラド美術館蔵
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もともと、エリザベート・ド・ヴァロワは、フェリペの最初の妃の子であるドン・カルロスのフィアンセ(王家同士の慣例)でした。ですから、メアリー1世が亡くなったので、それイングランドがダメならフランスというわけでもなかったようです。カトー・カンブレジ条約(イタリアを巡る戦争(イタリア戦争)を争ったヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(オーストリア・スペイン)が1559年に結んだ講和条約)に関連し、アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世が、それぞれ結婚することが定められた。1559年6月30日、その祝宴の一環で行われたモンゴメリ伯との馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれ、その傷がもとで、7月10日亡くなってしまう。

そんなこんなで、フェリペ2世は、三度目の結婚をします。フェリペは出席していなく、代理人による結婚式は、1559年(6月22日?)、パリのノートルダム大聖堂で行われた。彼女の結婚式の祝宴は、実父アンリ2世の悲劇的な事故のさなかであったとwikiに書かれているが、馬上槍試合が1559年6月30日とあるので、それぞれの正確な日はどうなんでしょうか?それとも結婚式と祝宴は別の日だったのか?

しかし、王太子ドン・カルロス息子をネーデルランドへ追放?して、そのフィアンセと結婚したのはヒドイ話!というわけでオペラにもなったわけですが。。ちょうど、日本にもヒドイ信長さまがいた時代ですからね~。しかし、可哀そうに、彼女も、ドン・カルロスが1568年7月24日に亡くなると、同じ年、1568年10月3日に亡くなってしまいます。

ウィーン美術史美術館のスペインの部屋に展示されている二人の肖像画。
@やっと、二人の肖像画が並べられている背景が分かりました~

カルロス王子とエリザベート・ド・ヴァロワ
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彼女は、フェリペ2世との間に3人の子供を産みますが、その長女がイザベラ・クララ・エウヘニア、後のハプスブルクのアルブレヒト大公妃で、夫と共にネーデルランドを共同統治したそうだ。王家の結束は強いですね!

今度は4度目の結婚ですが、お相手は、オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘、アンナ・フォン・エスターライヒ(Anna von Österreich 1549年11月1日 - 1580年10月26日)

気品のある白い衣装が素晴らしい   wiki画像
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ウィーン美術史美術館に並べて飾られている肖像画
息子のフェリペ3世 1590~92年 と アンナ・フォン・エスターライヒ 1571年
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アンナのお父様は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世です。そういえば、ルドルフ2世の父親で、彼を子どものころフェリペ2世に預けたことがありました。アンナはルドルフの姉で兄弟である。フェリペ2世とは実の伯父・姪の間柄であったため、ローマ教皇ピウス5世が反対したが、結局、教皇が認可したため、2人は、1570年5月、プラハで結婚する。

子どもは5人生まれが、フェリペ3世(Felipe III, 1578年4月14日 - 1621年3月31日だけが育ち成人した。ですが、うまれつき病弱であったため、後継ぎができたとはいえ、年老いてゆく父フェリペ2世は息子の将来、はたまた国の行く末に不安を抱いたとか。。

1598年9月13日、フェリペ2世が亡くなる。

1609年、スペイン全土からモリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒)の追放が行われた。その数は27万人に及び、ほとんど農民であったため、スペイン農業は大打撃を受け、深刻な食糧不足に陥ったといわれる。

そして、1611年(慶長16年)、スペイン国王フェリペ2世の息子フェリペ3世から、徳川家康にスペイン時計が贈られている。
by caramel24carat | 2014-01-26 17:01 | 建物・アート | Comments(0)
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