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Caramel 24 Carat

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ペリー艦隊来航記念碑@下田




伊豆半島の温泉町下田の港にある、ペリー艦隊来航記念碑についてなど



@昨日からの降りつづいた冷たい雨も止みました~☁~☼
ソチ・オリンピックの男子フィギュアスケートで十代の羽生結弦くんが、
とうとう悲願の金メダルをとりましたね!今回大活躍の十代選手が素晴らしい!




下田の港公園に咲く桜。ブレてますが、その日は風がとても強く、湾からの冷たい風が吹いていました~(イイワケ?)金と言えば、金目鯛美味しかったです~
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下田湾の港公園に立つ、ペリー艦隊来航の記念碑。

1852年11月、バージニア州ノーフォークを出航し、フィルモア大統領の親書を携えて、日本を開国させた、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュウ・ペリーさん。
マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)

ジョン・万次郎が救助されたアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号のホイットフィールド船長と共同船主であったルーズベルトの祖父ワレン・デラノとペリー提督との接点はあったのでしょうか?
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ペリー提督の日本遠征の目的は、日本を開国し、当時のエネルギー資源でもあったというクジラを獲る米捕鯨船の補給地を確保することにあったらしい。その後、石油が発掘されて、捕鯨は廃れてしまう。。ちょうど、メルビルが『白鯨』を著したのが1851年、捕鯨漁の最盛期だったのかも知れない~。
ああ、ひょっとして、スピルバーグの『ジョーズ』ってメルビルの『白鯨』に影響受けたのかしら?
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驚くことに、1854年の日米和親条約下田条約締結のために、7艘もの黒船がやって来たのですね!
このカワイイ湾に、7艘もの黒船が停泊していたというのは、大変な迫力ある”絵”だったでしょうね!
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当時の下田の人々の驚愕といったらきっと言葉に言い表せなかったでしょうね。

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因みに、黒船が黒かったのは、、防腐、防湿のため黒いコールタールが塗られていたからだそうです。

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立碑の裏面には、ペリー艦隊に同行した記録係であった画家ウィルヘルム・ハイネの詳細な絵がプレートになって飾られていました。ハイネさんがあちこちで描いた興味深い絵がたくさん残っているんですね。
下田の船着き場。
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ウィルヘルム・ハイネが描いた沢山の記録写真のような詳細な絵は、当時の様子を知る手掛かりとして大変貴重ですね!”百聞は一見に如かず”~キチンとすべてを記録させているところが、アメリカの凄い所だと思う。ハイネさんは名前からしてドイツ人だと分かりますが、ワーグナーとも親しかったとか。パリを経てニューヨークに亡命する。そのころ、ペリーの遠征の話を聞き、外交官になっていたハイネさんは、フィルモア大統領に遠征同行願いを出して許可される。この時、シーボルトも一緒に願い出ていたが彼は許可されなかった。
ウィルヘルム・ハイネ(Wilhelm Heine, 1827-1885)は、チェコに近い東部ドイツのザクセン王国の首都ドレスデンで生まれ。
ペリー上陸の図。
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2004.3.31。日米交流150周年によせたアメリカ大統領ジョージ・ブッシュのメッセージを刻んだ碑。
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同年3月31日にモニュメントに点火された「日米友好の灯」。
国体が行われた時に、ペリーの生誕地ロードアイランド州ニューボートから空輸されたものとか。
灯は燃えていたのかしら?気が付きませんでした?が、強風で消えていたのかも?
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ちょっと気になるペリーさんの生い立ちについて  日米150周年の記事より引用
”ペリー提督は、ニューポートに生まれ、14歳で米国海軍に入隊して以来、米英戦争などで活躍し、その後西アフリカやカリブ、地中海、メキシコ等を航海して海軍での業績を積んでいきます。1814年にニューヨークの裕福な貿易商かつ銀行家の娘であるジェーン・スライデルと、ブロードウェーの10丁目にあるグレース教会で結婚しました。そして航海に出ないときは殆どマンハッタンの自宅で過ごしました。
1833~43年にかけて、ペリー提督はブルックリンの海軍工廠に配属され、新兵の募集や海軍士官の教育に従事しました。この頃、一家はスプリング・ストリートの95番地に住んでいました。
 1853~54年の日本への遠征後、ペリー提督は海軍顧問を務めましたが、再び航海に出ることはなく、マンハッタンの32丁目ウェスト38番地に住んで、3巻におよぶ「日本遠征記」を執筆しました。しかしペリー提督の体は長い航海のため害されており、日本から帰国してわずか4年後の1858年3月4日、風邪をこじらせたことがきっかけで、亡くなりました。”


ところで、ペリーさんの銅像の立つ港公園で見かけた小さなプレートですが、”ジャカランダ”が、ニューポート市と下田市の姉妹都市50周年を記念して植樹されたようですが、ジャカランダの木は見当たりませんでした?

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以前ブログの記事で書いたことがあったので思い出したのですが、ジャガランダの花はノウゼンカズラ科の紫色の花で、南半球の南アフリカでは9・10月のころ満開になってとても綺麗らしい。ちょうど日本で4月に桜が満開のように、ジャガランダの花が美しく咲き乱れるそうです。南アフリカ共和国の首都プレトリアはジャカランダ・シティーと呼ばれている。アフリカ最貧国ザンビアの紙幣にはジャカランダの木が刷り込まれているらしい。
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ニューヨークよりも北に位置するニューポート市と熱帯や亜熱帯に咲くジャカランダの接点は、やはり黒人奴隷貿易でしょうか。。
by caramel24carat | 2014-02-15 14:31 | 歴史・人物 | Comments(0)
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