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Caramel 24 Carat

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レオニダス・ポークとポーク軍旗




アメリカ南北戦争の南軍の将軍レオニダス・ポークについてなど



@本日は、雨がしとしと日曜日~ モナリザの微笑~
ああ、ウクライナUkraineは今後どうなるのでしょうか




前に、古代ギリシャのスパルタの王レオニダスについてチョコっとふれましたが、アメリカ南北戦争の南軍の将軍が、同じギリシャの名前をもつレオニダス・ポークという方と知りました。

将軍の肖像画を見た時、レオニダスの名前に負けないギリシャ彫刻のような風貌をした方なので、とても感動しました~


レオニダス・ポーク(英: Leonidas Polk、1806年4月10日-1864年6月14日)
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レオニダスは、1806年に、ノースカロライナ州ローリーで生まれる。

ちょっとタイトルとは関係ない話ですが、前出の不二家のノースカロライナは、年輪のような渦巻き模様のキャラメルですが、そのオシャレなネーミングの由来は、当時の社長が、ノースカロライナ州のアパラチア山脈を訪れ古木の切り株を目にし、その大きくりっぱな年輪に感銘を受けたことをきっかけに名付けられたそうです。製造販売は1968年(昭和43年)~1994年。社長さんは、どこへ行っても常にアンテナを張っているのですね。

レオニダスの生まれたノースカロライナ州の州都ローリーRaleighは”オーク・シティCity of Oaks”と呼ばれ、ローリーの旗には樫(ブナ?)の木がデザインされています。

レオニダス・ポークとポーク軍旗_b0209886_10143956.png


ギリシャ・スパルタの将軍のような風貌をしたレオニダス・ポークですが、南北戦争でポーク軍を指揮していた時の旗がなかなかステキです。
青地に赤のセントジョージ十字をあしらい、アメリカ連合国の11の州を表象する11の星を飾ったもので、
ミシシッピ軍と、テネシー軍の第1軍団(ポーク軍団と呼ばれた)を編成し戦っていたとき、自ら、自身の旅団のためにデザインした軍旗だそうです。
レオニダス・ポークとポーク軍旗_b0209886_1242264.png

Polks corps flag
Active   November 20, 1862 – April 26, 1865
Country  Confederate States of America
Branch  Confederate States Army


レオニダス・ポークは、ウエストポイントを1827年6月1日に卒業した後に、バージニアの神学校にも入る。
1830年、ポークはフランシス・アン・ドブローと結婚し、1832年、家族と共にテネシー州モーリー郡の広大なポーク領地"ラトル・アンド・スナップ"に移転し、「アッシュウッド・ホール」と呼ぶギリシャ復古調の壮大な家屋を建設する。
やっぱり、レオニダスという名前に肖ったのか、立派なギリシャ神殿風のお屋敷を建てたのですね!
Ashwood Hall
お屋敷の前には、6人の人が見えます。
レオニダス・ポークとポーク軍旗_b0209886_13251531.jpg

ホワイトハウスに似てます。

当時19世紀前半、イギリスからの保護を離れたアメリカでは、民主主義の象徴としてののアテネのアクロポリスを取り入れたギリシャ復古調建築が流行していた。


アメリカ、イギリス両国のオレゴン地方境界紛争を解決した第11代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ノックス・ポーク(James Knox Polk, 1795年11月2日 - 1849年6月15日)は、レオニダスのまた従兄弟にあたるらしい。

@以下メモ wikiより転載引用

ポークは、モーリー郡にいる4人の兄弟と共に、アッシュウッドに一族の教会、セントジョン教会を建て、テネシー州コロンビアにあるセントピーター教会の司祭も務めた。
1838年9月には南西部の伝道主教に指名され、1841年10月にはルイジアナの主教に選ばれる。
そのことで「戦う主教」とも呼ばれた。肖像画の司祭の服装に納得。

南北戦争が勃発したとき、米国聖公会からルイジアナ代表者会議を誘致する。友人でかってはウェストポイントでルームメイトだったジェファーソン・デイヴィスがポークにアメリカ連合国軍での任務を引き受けるよう説得した。ポークは同意し、1861年6月25日に少将として任官することになる。
ポークは1861年9月にケンタッキー州コロンバスを占領するという、南北戦争の中でも最大級のしくじりを犯してしまった。ケンタッキー州は中立を宣言していたが、ポークの行動でその中立を終わらせ、ケンタッキー州は直ぐに北軍の支配下に入った。

ポークは1864年6月14日、ジョージア州マリエッタ近くのパイン山で、参謀と共に敵の陣地を偵察している時に、北軍の3インチ (76 mm)ホチキス砲弾が当たって戦死した。


@ノース・カロライナの歴史を見てみますと、「カロライナ」は、イギリス国王チャールズ2世が、父チャールズ1世の栄誉を称えて命名したらしい。「カロライナ」は「チャールズ」のラテン語名らしい。

”1584年、イギリス王エリザベス1世がウォルター・ローリー卿に現在のノースカロライナの土地(当時はバージニア)に対する土地特許を与えた。ローリーは現在の州都ローリーの名前の由来となった。ローリーは1580年代に海岸部で2つの植民地を設立したが、どちらも失敗した。イギリスがアメリカ大陸で植民地化を試みた2つめのものだった。ロアノーク島に造られた「失われた植民地」の消滅は、アメリカ史の中でも謎の1つとして残っている。北アメリカで生まれた最初のイギリス人赤ん坊であるヴァージニア・デアは1587年8月18日にロアノーク島で生まれた。ノースカロライナ州デア郡はその名を記念するものである。

1650年には既に、バージニア植民地から開拓者がアルベマール・サウンドの地域に移ってきていた。1663年に、国王チャールズ2世が北アメリカ大陸における新しい植民地を始めるための土地勅許を与えており、それがノースカロライナの領域を規定している。チャールズ2世はその地を、父のチャールズ1世の栄誉を称えて「カロライナ」と命名した(チャールズのラテン語名はカロラスである)[8]。1665年には領土問題を解決するために2つめの勅許が発行された。1710年、統治に関する論争が起きたこともあり、カロライナ植民地はノースカロライナとサウスカロライナに分かれた。サウスカロライナは1729年に王室領植民地になった。”
by caramel24carat | 2014-03-02 15:00 | 歴史・人物 | Comments(0)
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