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Caramel 24 Carat

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いろはカルタと五郎八姫


真っ青なお空が広がっています~☼
ずいぶんと陽が伸びました



お正月遊びといえば、昔は百人一首やカルタとりなんかやりました

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家にあった“ことわざカルタ”をちょっと並べて見ました

“鬼に金棒”とか“花より団子”や
“安物買いの銭失い”とか(笑)

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も:門前の小僧習わぬ経を読む
し:知らぬが仏
み:身から出たさび
ゆ:油断大敵
  (武士の切腹シーンで本能寺の信長のイメージらしい)



小さいころ好きだったゲームは“ダイヤモンドゲーム”だった
単純なゲームだったけれど面白かった
いろはカルタと五郎八姫_b0209886_13222643.jpg

wikiより

今の子は、もっぱらコンピューターゲーム(なんていうのかな?)でしょうか
ゲームのハシリといえば、インベーダー、そしてスーパー・マリオ等など
を思い出します

あのSマリオの任天堂が天狗印の花札を作っていた会社だと知った時は
ほんと驚いたけれど、上手いね

@ところで、前回、伊達政宗の娘の名まえが「五郎八姫」と知り
えっ、何て読むの?と戸惑いましたが、「いろは姫」と読むそうだ

でも、なんで男の子みたいな漢字を使ったのでしょうか
伊達政宗は、是非とも男の子が欲しかったので
「五郎八」と言う名前を考えていたけれど
しかし、生まれたのは可愛い女の子だったので
「姫」をくっつけてそのまま「五郎八姫」となったらしい


「五郎八」が「いろは」とは、ちょっと読めなかったわ

驚いたのは、伊達政宗の正室愛姫が、豊臣の人質だったため
五郎八姫の誕生地が、豊臣秀吉の邸宅京都伏見の聚楽第だったこと
また、徳川家康の六男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と
堺の豪商として知られる今井宗薫を仲介役として
政略結婚しているが、23才で離婚している

@婚礼では、伊達締めの一本締めでお祝いしたのですね

生母の愛姫が(一時期)キリシタンだったことから
五郎八姫もキリシタンだったと言われている

戦国時代とはいえ、仙台から京都と
遠距離をかなりダイナミックに動き廻っていたのは
ホント驚きだわ


@ちょこっとググると、
ゲームの漫画キャラがいっぱい出ますが
ゲームやってると歴史にも強くなるのかしら


以下Wikiより引用

五郎八姫(いろはひめ
文禄3年6月16日(1594年8月2日)- 寛文元年5月8日(1661年6月4日))は、徳川家康の六男・松平忠輝の正室。伊達政宗の長女。母は正室の愛(めご)姫(田村清顕の娘)。院号は天麟院(てんりんいん)。

文禄3年(1594年)6月16日、京都の聚楽第屋敷にて生まれた。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたであろうが、生まれたのは女児だった。このため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている[1]。

五郎八姫は、聚楽第から伏見、大坂と各地を転々としたが、慶長4年(1599年)1月20日に有力大名との関係を深めようとする家康の策謀の一つとして、徳川家康の六男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚約することとなる。慶長8年(1603年)には伏見から江戸に移り、慶長11年(1606年)12月24日に忠輝と結婚した。忠輝との仲は睦まじかったが子供は生まれなかったと言われている。そして元和2年(1616年)、忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らした。

このとき、仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿とも呼ばれた。寛文元年(1661年)5月8日、死去。享年68。墓所は松島の天隣院[2]。
by caramel24carat | 2016-01-14 13:23 | 暮らし・ハイ句 | Comments(0)
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