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Caramel 24 Carat

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ピエール・ロティことジュリアン・ヴィオとお菊さんあれこれ


ハッキリしない空模様~

そろそろ夏祭りで花火が打ち上げられるころでしょうか
花火といえば、線香花火もスキです


火玉になるのをジーっと待って
やがてパチパチと松葉、柳、菊と
変化していく花火がたのしかった


先日行った名古屋駅にて
博多にも行ってみたい
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博多といえば、火野葦平の『花と龍』ですが

全身刺青を入れた「刺青大臣」と呼ばれた
小泉大臣(元小泉総理の祖父)を火野葦平の父親玉井金五郎が


若松市会議員一行として 東京に出張した際
衆院本会議(昭和5年、第58帝国議会)を見学している場面があるそうだ
ピエール・ロティことジュリアン・ヴィオとお菊さんあれこれ_b0209886_17223556.jpg


ところで、7月14日のパリ祭の花火を思い出し
芥川龍之介の短編小説『舞踏会』のシーンを連想して

当日、新たな記事を書いてたのですが、投稿直前に消してしまった
その翌日に、ニースの花火見物にトラックが突入して驚いた

気を取り直して、今度はピエール・ロティと瀧廉太郎のことも
書き加えようとしたら、またミスってしまいましした

そんなこんなで、ちょっと長くなってしまいました



以下、いろいろなメモ

以前にも、芥川龍之介の『舞踏会』のこと書いたことがありましたが

今回、さらに、ピエール・ロティことジュリアン・ヴィオが
長崎のグラバー邸の向かい側の丘で1か月ほど住んでいたと知りました

そして、そこで一緒に住んだ相手はお菊さんといい
プッチーニのオペラ『マダム・バタフライ』にもなった、らしい

ところで、少し前に白洲次郎のこと書いてた時に

父親白洲文平が、1928年綿商社倒産のあと
大分の竹田萩というところへ移り住んだと知りました

建築マニアな文平は、塔のような4階建ての家を建てて
晩年を過ごしたらしい

ピエール・ロティことジュリアン・ヴィオとお菊さんあれこれ_b0209886_1725391.png

しかしなんでまた、神戸や東京でなく大分竹田萩なんでしょうか?
なんとなく合点がいかなくて、何かパワースポットでもあるのかしら?

と、ふと思って「白洲文平+パワースポット」で検索をかけると

なんと、竹田の地には『お菊さん』が洞穴に住んでいた!
という情報があってビックリ仰天しました

えぇ~~!お菊さん可哀そうに
なんで洞窟なんかに住んでたのでしょうか?

白洲文平といい、お菊さんといい、なにか豊後竹田には
ベールに隠れた秘密の歴史があるのでしょうか?

で、さらに調べていくと、豊後竹田には
なんと、瀧廉太郎記念館があるという

瀧廉太郎といえば、花火大会で有名な“隅田川”が歌われる
『花』で有名です~「は~るのうららの 隅田川~♪」

また、瀧廉太郎の『荒城の月』も有名ですが
JR九州豊肥本線の豊後竹田駅発列車発着時のメロディになっているそうだ

白洲文平に、お菊さんに、瀧廉太郎と、さらになぞは深まるわ~?
とその接点は?と調べてみると、

なんと、切支丹(キリシタン)の洞窟礼拝堂があった!

時代は遡り、ポルトガルから火縄銃が伝来し
ザビエルが1549とキリスト教を伝えましたが

かつて、豊後竹田には、隠れキリシタンの信者たちが
豊臣秀吉が出した禁教令から逃れて住んだところらしい

そこに洞窟を掘り礼拝堂をつくったらしい

ひょっとして、ジュリアン・ヴィオに捨てられた
お菊さんはキリスト教徒だったのかしら

生きるよりどころを信仰に求め
悲嘆にくれ長崎から元々切支丹の聖地?だった
竹田に移り住んだのかしら?

実は、お菊さん(おかねさん)は竹田出身で
西南戦争で焼かれた没落武士の娘だったらしい

その後、長崎に出て、ジュリアン・ヴィオと暮らすことになったらしい
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因みに、フランス海軍士官ジュリアン・ヴィオが
長崎にやってきて1か月も逗留したのは

巡洋艦トリヨンファーン号の修理のためだったらしい
やがて、修理の終わった船で航海に出たジュリアン・ヴィオは
現地妻お菊さんとはさよならしたのですね

お菊さんが竹田に戻ったのは1901年~1902年ころだった

竹田の観光スポットにもなっている瀧廉太郎記念館ですが
なぜにここにあるのか?

というのは、廉太郎の父親が紀尾井坂で暗殺された
大久保利通の時の内務官僚であったが
その当時、故郷に近い豊後竹田に赴任していた

瀧廉太郎は、明治政府文化庁の派遣でドイツに留学していた
ライプツッヒ音楽院で学んでいたが、まもなく結核になり

父親のいる豊後竹田に帰国し、療養していたが回復せずその地で
亡くなってしまった~そんなワケで滝廉太郎記念館があるらしい

豊後竹田は行ったことありませんが、阿蘇山麓東側に位置する
春に大地震のあった熊本益城町とは阿蘇山を挟んでちょうど反対側あたりかな

以前、阿蘇山は、やまなみハイウェーをドライブしたことがあって
なだらかな丘が広がりとってものどかないいところだった思い出があります


瀧廉太郎が『荒城の月』を作曲したという現場があるという

その現場は、「岡城」といい豊後竹田の観光スポットにもなっている
なんと、岡城の石垣には大きな三日月が彫られていたらしい

その三日月が彫られたのは、荒城の月の跡なのか前なのか?

天然の要塞で山城であった≪岡城≫の歴史をみると古く
1185年、源頼朝から逃れてきた源義経を迎えるために
築城されたのが始まりで

南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた
大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され岡城と名付けられたとされている

ここからが興味が興味深いのですが
ジュリアン・ヴィオが長崎にやって来た300年ほど前

“天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年(1587年)正月3日付けの褒状を受けている

豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。“

う~ん、豊臣秀吉が岡城を没収し、播州国三木から中川秀成を送ったわけですね

“明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである”

豊臣秀吉によって、播州国三木から転勤を命じられ
初代の豊後国岡藩主となった中川秀成は豊臣姓を与えられたとも

この中川秀成の出身地、播州国三木とはどんなところなのかしら?
と、調べてみると、ちょうど明石市から子午線に沿って北上したあたりだ

要するに、播州とは神戸だわ~白洲文平ゆかりの土地だわ~
フフ~ん、なんとなく、白洲文平が竹田にやってきた接点らしきものが見つかった

そして、なんと、播州国三木は“刃物”の産地で歴史があるらしい
刃物といえば、関の刃物が有名だけれど

播州三木で検索して出てくるのは
大工道具のノミや植木ハサミや包丁やナイフの産地のようだ

(先日の1人で包丁を持ち、短時間に驚異的な大量殺人をした
凶悪な植松聖って、ほかにその能力を生かせなかったのかしら
ゴルゴ13も顔負けじゃないですか!?
それとも、そもそも必殺仕事人として雇われたのかしら?
るろうに剣心を思いだしました
ほんと不謹慎なこと書いてますが、
ちょうど監視カメラの真ん前で、車を止めてトランクから
包丁一式を取り出しているなんて、絵として出来スギで
おかしいですよね)


そう、庭師といえば、1889年のパリ万博に日本造園のために派遣された
天才庭師の誉れ高かった横浜鶴見出身の畑和助は

1900年のプリンスと言われたロベール・ド・モンテスキューに雇われた
その後、パリ、ロスチャイルド家にも庭師として雇われている


そしてそのまま日本には帰らすパリで没したそうです
なにか、庭師のほかの任務もあったのでしょうか?

フランス海軍士官ピエール・ロティことジュリアン・ヴィオは
トルコも大好きだったらしいですが

イスタンブールには、ピエール・ロティの名前のカフェや
トルコの切手にもなっている

アカデミー・フランセーズの会員にもなり
亡くなったときは、なんと驚きですが、国葬だった

フランスに貢献した、とても重要な人物だったのでしょうか

その、ジュリアン・ヴィオとロベール・ド・モンテスキュウーは
1882年に親交を結んでいる

1883年に鹿鳴館が建てられ、1885年に横浜に寄港し
11月3日、明治政府の招待を受け
鹿鳴館で開催された舞踏会に出かけた

その時のことを、『江戸の舞踏会』として著した
それをヒントに、芥川龍之介は短編小説『舞踏会』して書いた

同じように、作家としても名声を得ていたピエール・ロティの作品は
アンリ・ルソーやゴッホにも影響を与えたらしい

寄港地にはタヒチもあったので、同様に
ゴーギャンなんかにも影響を与えたのかも知れない

プッチーニの『マダム・バタフライ』、オペラ『蝶々夫人』は
オペラに精通していなくても、ごく普通にみんなよく知っている

そもそもピエール・ロティの
『ピエール・ロティの日本でのお菊さんとの奇妙な生活』が元になっていて

1898年、フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが短編小説『Madame Butterfly』として
(長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇の物語)
アメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表したものを

アメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが戯曲化したものに
プッチーニが作曲したらしい


ここで、お菊さんに聞きたいわ~?
『どうして、豊後竹田の洞窟に住むようになったの?』
ほんと哀れだわ

瀧廉太郎も、若干23歳で亡くなっている
ここで、驚いたのですが、瀧廉太郎の≪やりすぎ都市伝説≫が
ありました。TVでやっていて時々見ましたが
瀧廉太郎の都市伝説もあるなんて

そう、海運王のギリシャ人オナシス(元ジャックリーン夫人の夫)の
愛人であったマリア・カラスが、なんと、長崎に訪れてた、という
情報があった

1973年にマリア・カラスがコンクールの審査で長崎を訪れ
グラバー園にオリーブの樹を植樹した、という

イギリス人グラバーといえば武器商人でした






by caramel24carat | 2016-07-28 17:02 | 歴史・人物 | Comments(0)
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