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Caramel 24 Carat

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意外だったフランス風の洋館とロシアへ留学した西郷ジュウリ




今日は晴れました~⛅
昨日は雨風が強く大荒れのお天気でしたが



晴れるとホッとしますね

沼津駅の北口を降りると
リコー通りというのがありましたが
調べてみてもハッキリと沼津との因果関係が分からない

ちょうど少し前に
リコー(光学機器メーカー)が数千人規模のリストラをするという
ニュース見たばかりだったので
ちょっと気になったのですが


また
昨日は現沼津市長(58)の訃報も流れていて
ほんと驚きました!


前々回
沼津御用邸のこと書いてました時に
西郷隆盛に弟がいること知り意外でした

あまりにも隆盛が有名過ぎて
15歳年下の弟西郷従道の名前は初めて知りました

その西郷従道(ジュウドウ)の長男に従理(ジュウリ)がいて
なんと
ロシアへ7歳で留学していたというから驚きました!


西郷従理(1874年10月9日 - 1884年12月10日) は
1881年(明治14年)~1884年(明治17年)に
駐日ロシア公使シャール・ド・スツルヴェと一緒に
ロシアやアメリカへ渡ったという
ロシアではアレクサンドル3世の皇后マリア・フョードロヴナ
アレクサンドル3世の弟アレキシス親王に可愛がられたという

ほんと驚きです!

ロシア皇帝アレクサンドル3世皇后
マリア・フョードロヴナ

戴冠式のマリア

1883年5月27日にモスクワのクレムリンで戴冠式が行われ
夫アレクサンドルがロシア皇帝
アレクサンドル3世として即位し
マリアは皇后となった
戴冠式にはアレクサンドラとアルバート夫妻も招待され
3000人もの王侯貴族が訪れた


👑

西郷従道の長男西郷従理は7歳で
ロシアに渡ったわけですが

皇弟と皇后を代父母として正教会の洗礼まで受けた(聖名:アレキセイ)

その後、スツルヴェが駐米公使に転任したのに伴い
ワシントンに移ったが、腸チフスに感染し
明治17年(1884年)12月10日、ワシントンで死去した(10歳2ヶ月)
死去の前日、従叔父の大山巌が欧米視察の途中に見舞いに駆け付けた

それにしても7歳でロシアまで行かねばならなかったとは
胸が痛みます



明治政府の中枢で大臣を幾つも務めていたという
西郷従道は沼津に別邸がありましたが

本邸は目黒区上目黒の
現西郷山公園界隈にあったという

和風造りの本邸(焼失)以外にも敷地内には
内外の要人を接待する
フランス人建築家レスカスが設計した洋館が建っていた
耐震構造建築だったレスカスの洋館は
震災後も無事残り

現在、愛知県犬山の明治村に移され
公開されている、という

浴衣を着た西郷さんの銅像からは
かけ離れた瀟洒な洋館にビックリ!




旧所在地 東京都目黒区上目黒
建設年代 明治10年(1877)代



15歳年下の弟従道が兄隆盛のために
建てたらしい

明治村サイトより引用


木造総二階建銅板葺のこの洋館は、明治10年代(1877~1886)のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものである。西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かった。そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を接客の場として設けたのである。


レスカスは明治5年(1872)には生野鉱山の建設に従事、同6年には皇居の地盤調査にも参加している。また、ドイツ公使館や三菱郵船会社の建物を設計し、明治20年頃まで建築事務所を開業していたが、その傍ら、日本建築の耐震性についての論文をまとめ、自国の学会誌に寄せている。
二階各室には丈の高い窓が開けられている。フランス窓と呼ばれるもので、内開きのガラス戸に加えて外開きの鎧戸が備えられ、窓台が低いため、間に鉄製の手摺が付けられている。
窓上のカーテンボックス、手摺、扉金具、天井に張られた押し出し模様の鉄板、そして流れるような曲線の廻り階段等、内部を飾る部品は殆ど舶来品と思われる。特にこの廻り階段は、姿が美しいだけでなく、昇り降りが大変楽な優れたものである。

目黒区サイトより

青葉台二丁目周辺は、別名西郷山(目黒区青葉台二丁目10番28号)とも呼ばれている。それは、明治の初めに西郷隆盛の弟従道(じゅうどう)が付近の地形を生かした広い庭園を造り、立派な建物を構えていたからである。

兄隆盛のために購入。従道とは15歳離れている。

このあたりは、江戸時代、「荒城の月」で知られる豊後(今の大分県)の岡(竹田)城主、中川修理大夫しゅりだいぶかかえ屋敷であった。樹木がうっそうと茂り、池に三田用水から水を引くなど、林泉の美しさは近郊随一とうたわれた。その後、2万坪に及ぶこの屋敷は、明治維新のとき征韓論を主張して破れ、下野した兄隆盛のために、従道じゅうどうが手に入れたのである。

西郷従道じゅうどう(1843年から1902年)は、明治2年に山県有朋やまがたありともらと欧州を視察後、わが国の兵制や警察制度の制定、殖産興業政策の推進に尽力した。兄の下野にもかかわらず、英明な従道じゅうどうは新政府の要職につき、文部卿・陸軍卿・農商務卿・内務卿・海相などを歴任した。

明治天皇も来邸

洋館・書院造りの和館などを配置した回遊式の庭園は、東京一の名庭園といわれ、名士が訪れることも多かった。特に、従道が海軍大臣であった明治22年には、明治天皇の行幸や、皇后・皇太后の行啓があった。天皇は、庭園での大相撲や薩摩踊りを、また皇后は、当時従道が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心に観覧したと伝えられる。

邸内には、養蚕所のほか農園・果樹園もあり、機織りやトマトソースの製造・缶詰加工も行われていたという

耐震性を考えた西洋館

広々とした芝生や、大王松だいおうまつ・ヒマラヤ杉・落羽松らくうしょうなどが茂る樹林に囲まれ、清浄な池に面した西洋館の建築には、フランスの建築家レスカースと棟梁とうりょう鈴木孝太郎が携わった。
建具類はほとんどフランス直輸入の品を使用した。また、屋根は垂木たるきを省いたり、金属板を葺くなどの軽量化が図られた。さらに、建物の四隅には通し柱を配置、壁の中にはれんがを積み建物の浮き上がりを防ぐなど、当時では、他に類例の見られない耐震設計がなされていた。

跡地は公共施設に

従道じゅうどうの死後は、二男従徳じゅうとくが昭和16年に渋谷に移転するまで、本邸として使用していた。その後、同邸の所有は箱根鉄道・国鉄と移ったが、空襲で和館が焼失したり名木が枯れるなど、往時の面影はほとんど失せてしまった。わずかに残された西洋館は、国鉄官舎や当時のプロ野球国鉄スワローズの合宿などに利用されていたが、昭和38年、愛知県犬山市の「明治村」に移され、後、国の重要文化財に指定された。

現在は西郷山公園・菅刈公園として整備され、新たな憩いの場となっている。

以上転載引用






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by caramel24carat | 2018-03-22 11:43 | 歴史・人物
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