今日は春のような暖かい日~☀
ローズマリーの薄紫の小さな花が咲いて
枝を折るといい香りがさらに広がる~
ローズマリーは薬草でもあるといいますが
むかし
ヨーロッパってアチコチでペストが大流行したらしく
からくり時計を観に行ったそばの
ウィーンの街のド真ん中に終焉の記念碑が建っていて
驚いたことがありました
ローズマリーのwikiみますと
なんと
17世紀 トゥールーズでやっぱり大流行し
セージ、タイム、ローズマリー、ラベンダー等を
酢に浸して作った薬を塗った人が感染しなかったという
このお酢は「4人の泥棒の酢(英語版)」と呼ばれる
いわくつきのものらしいですが
ガンはストレスからくるといわれますが
イスラエルではすでにがん治療薬が完成している
という情報もあったりします
前回 知りました高田薬園ですが
JR山手線の高田馬場駅の由来らしい
徳川家康の6男松平忠輝の越後高田藩の江戸屋敷が
高田薬園に建っていたという
高田薬園は
後に綱吉の母お玉こと桂昌院が護国寺を建てたとこ
越後高田藩江戸屋敷(高田御殿)→高田薬園→護国寺
江戸幕府は厚生医療に力を入れ
御薬園で
様々な植物を栽培し
薬になるような薬草の発見と研究をしていたようです
近所の梅もたくさん咲いてました
生類憐みの令を出した5代将軍綱吉の母であった
桂昌院が
1681年2月7日その高田薬園の地に護国寺を創建する
この江戸の17世紀後半と言えば
当時大流行していた
フランスルイ王朝やハプスブルク家からも
ペスト大流行のうわさはきっと入って来てたかも知れません
江戸の町が
1657年の振袖大火をきっかけに再開発に乗り出したのも
江戸の町の衛生面のことも考えていたのかも知れません
なんといっても
平和はストレスのない清潔な街が一番
広大な高田薬園のあった後に建った護国寺の住所は
文京区大塚5丁目40-1
1636年、幕府は北と南に御薬園を造った
北は大塚、南は麻布
1681年に北の大塚にあった御薬園は廃止し
1684年、南の麻布にあった御薬園も
綱吉の別邸のあった小石川に引越し統合した
現在の小石川植物園
東京都文京区白山3丁目7番1号
八代将軍吉宗の時に
江戸の貧病人のための「施薬院」もできた
黒沢明監督の『赤ひげ』はここが舞台なんですね
それから
鹿児島の芋焼酎の森伊蔵の原料であるサツマイモも
1735年(享保20年)
将軍吉宗の時の江戸町奉行の大岡忠相が庇護し
青木昆陽が
飢饉対策の作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行ったという
wikiより小石川植物園
園内にはオモシロイ木も植えられているのですね
ケントの花(ニュートンのリンゴ)メンデルの葡萄
1636年に江戸幕府は直轄の南北御薬園を造園
北の御薬園の地に護国寺が建ったワケですが
別名『高田薬園』と呼ばれる前は
高田御殿が建っていた、という
高田御殿というのは越後高田藩の下屋敷のことで
徳川家康の6男の松平忠輝の屋敷だった
松平忠輝の母は家康の正室付きの侍女(茶阿の壺)だったためか
家康の子でありながら生まれた時から
鬼っ子として嫌われていたというが
しかし越後高田藩主としては立派だったらしい
語学も達者でポルトガル語も話したという
松平忠輝は伊達政宗の娘五郎八姫(いろはひめ)と結婚五郎八姫=いろはひめ
伊達政宗といえばローマへ
支倉常長を派遣しましたね
当初伊達政宗は
義理の息子忠輝も参加させるつもりだったという
キリシタンの噂もあったらしい
1646年
薬草園の責任者が隠れキリシタンと発覚し
切支丹屋敷で処刑されたという事件があった
文京区は
隠れ切支丹屋敷の郷だったらしい
この辺の歴史興味深いですね
護国寺のあたりに弦巻川が流れていて
池袋の湧き水が注ぎ込んでいた
JR池袋駅の西口広場あたりに
湧き水からできた巾着型の形の池があって
それが池袋の由来とは
おもしろいですね
池袋から弦巻川が流れ雑司ヶ谷、護国寺の脇を通って
神田川に流れていた~
川淵に楮(コウゾ)が植えられていた
コウゾは和紙の原料の木
それで
あたりには紙漉き小屋ができて
その紙を刷る印刷屋ができ
今の講談社や光文堂などの出版社ができたという
神田の古書街のルーツは
池袋の湧き水だった!
天正遣欧少年使節団が
印刷機を持って帰りましたが
1586年
ローマ教皇との会見のニュースが
ドイツのアウグスブルクの新聞にのりましたね
文京区キリシタン坂でマンション開発で
土地を掘っていたら
トスカーナ出身のイタリア人宣教師の人骨が
発見されたことがあったそうです
@DNA鑑定で判明
キリシタン禁制下に来日した
小日向の切支丹屋敷にいた最後の宣教師と呼ばれた
ジョバンニ・バチスタ・シドッチ(47才没)
尋問をしたのは新井白石だったという